ひとごとと思わないからこそ

2011年3月11日(金)に発生した地震、それに伴う津波が引き起こした災害は甚大です。

被災された方はまだまだ予断を許さない状況が続いていると思います。気負いせずに、しかし挫けずにしっかりと現実を見ていただきたいです、たとえ目を背けたくなるような現実でもです。頑張らなくて良いです。ただしっかりと生きていれば、それで良いのだと思います。

現在でも救助活動・救出活動が行われ、幾人かの方が奇跡的に救出されたというニュースが流れています。救出活動に従事している方には、まだまだ諦めずに可能な限り救える命を見つけ出してください。絶望的かもしれませんが、助けを待つ人は望みを捨てずに助けを待っているのだと信じて、お願いします。医師の数が絶対的に足りないという報道もありました。壮絶な被害をもたらした震災ですから、いくらでも人手が必要なのだと思います。頑張ってください、としか僕には言えないです。

非難生活を強いられている方も、37万人とも報道されています。僕の住む街の人口が3万人弱なので、その10倍以上の方が自分の家から離れなければならなくなっているのですね。どんな状況なのかと想像しても、あまりに現実味を帯びたものにならず、ただただその数字の大きさに圧倒されます。1という数字が人ひとりを表しているのに、それが37万という数字になると、1という数字があまりに小さく思えます。でも、これは無視できない数字です(1。避難生活は、これからが、長く辛い時間になると思います。馴れない場所で、大人数で生活するわけです。本当に色々あると思います。どんなに苦しくても乗り越えてください。乗り越えられないなんてことはないんだと信じて、乗り越えてください。

津波が何もかも流し去ってしまって、被災地では生活する上で必要なものが足りなくなっています。救援物資を運ぼうと奔走している方がいらっしゃるようです。著名人が現地に直接、物資を届けたというニュースもあります。実業家の方たちが連帯して救援物資の運送を行ったというブログ記事も読みました。被災地で自治体が機能しておらず、現地に届いた救援物資を上手に配給できないというニュースもありました。できるかぎり均等に、できるかぎり迅速に物を届けてあげてください。

今回の震災で、全国の人たちが募金や義援金として被災地に支援をしています。僕も日本赤十字に寄付しました。お金を出せばそれで良いというのでなく、ただ出せるものがお金しかないということです。被災地のこれからを考えると、継続的な支援が必要なのだと思います。全国から、ちょっとずつでも継続的に募金していってほしいです。海外にいる日本人も、海外にいる外国人も、どうかよろしくお願いします。

また地震と津波のせいで異常停止し、炉心溶融までした福島県にある原発のことが危惧されています。原発の対処に現場で当たっている方々には、頭があがりません。おつかれさまです。厚かましいですが、原発の問題が解決するまでもう少しお願いします。よろしくおねがいします。

電力供給の大きな担い手である原発が停止しているので、関東一帯で計画停電が行われています。ヤシマ作戦と銘打って節電を呼びかけている人たちもいます。頑張ってください。僕が何か言うよりも、関東の人たちは皆さんでそれぞれ考えを出し合って、改善し合っているようです。是非、それをノウハウとして具体化してください。メーカーが作る省エネの国から、国民自身が作る省エネの国にしてください。隣の国がドカドカとエネルギーを消費しようがお構いなしに省エネ街道まっしぐらで生きましょう。

他人事でないと思うこと。そこから感情が生まれるのだと僕は思います。

  1. でも、やっぱり僕は無視しているのです。 []
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科学技術論——科学と技術との分離・融合

科学技術とは、読んで字の如く、科学だけでは足りず技術だけでも足りないものなのだろう。科学が論理的な側面を担い、技術が経験的な側面を担う。経験則を理論的に説明しようとして生まれた理論法則に、経験則が包含されていくのは当然の流れではあるから、理論がある程度の体系を得た現在で、技術が大なり小なり科学に道を譲るのは理解できる。以前は熟練の職人の技と言われたものが、現在では機械が技でも何でもない作業として行っているものも少なくない。

——いつかは科学が技術を完全に飲み込むのだろうか、と考えると、私は少し疑問である。なぜなら科学とは、理想化された世界を考え、揺らぎや誤差というものを排除する傾向にあり、現実はその揺らぎや誤差を多分に含んで存在している。逆に、技術はその揺らぎや誤差を含んで、技術として存在している。その違いのために、完全には技術が科学に呑み込まれないことを示しているように思うからだ。

機械が作ったものを人間が良・不良を見分けるという作業を例に挙げて考えてみる。これは人間が見極めた方が低コストで出来るからだという理由を真っ先に思いつくかもしれない。しかしそれは科学の範疇の外であるがために、科学に任せるとコストが嵩むということである。誤差を無視した科学の産物を、誤差を含めた技術が見極めているのだと言える。

副題を科学と技術との分離・融合としたのは、今までの科学や技術というコンセプトを改めて問い直し―つまり、分離して―相補的な役割を果す科学と技術とを一として捉えること、すなわち融合が現在において必要になってきていると考えられたためだ。具体的には、技術とはいつかは科学に呑み込まれるだろうという見解が暗黙のうちに広まっているように思うが、それは技術というコンセプトを経験に裏打ちされたものだと考えるからであり、それはほとんど時代遅れだと言わざるを得ない。技術を、科学の排除した誤差を含めた現実を捉えるものと考えたならば、検品作業は―人間にとっては退屈な作業でしかないが―全く技術的なものであり、機械にはできない誇るべきものとなり、技術は科学を補う存在と言える。

最後に、このコンセプト自体もいずれは時代遅れとなるかもしれない。誤差さえ含んだ科学が登場した時点で、上述の考えは破綻するのだから。そのときはまた別の考え方が必要になるか、もしくは科学技術とは則ち科学であるという風になるかもしれない。

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派手に転べ、強く起き上がれ。

失敗して、そればかりに囚われている人にはこう言おう。

「転んだことよりも、転んだまま起き上がらないことの方が大きな失敗になる」

僕の周りには、そんなことは当たり前で、わざわざ言われなくても自分で分かっている人たちが数多くいる。 これはとても頼もしいことだと僕は思う。 そんな人に、上のような言葉をかけるのは全く無粋で無配慮だ。

ではどのような言葉をかけるのがよいか。 もしかすると、言葉など必要ないのかもしれない。 けれども敢えて贈るのならば、こういう言葉がよいのかもしれない。

「派手に転べ」

失敗はみな恐れる。 だが失敗を恐れて消極的になると、逆に失敗に繋がる。 だから「転んだっていいじゃないか」と。 むしろ大いに失敗して、その失敗を繰り返さないようにすればいいのだ、と。 良い意味での失敗を恐れない心でいること。

ただ一つ強調するならば、大切なことは失敗を恐れる気持ちもあるということになるだろう。 もしも失敗するのが本当に怖いと思えなければ、失敗したとしても後悔(または反省)することが本当の意味で出来ない。 そうなると、同じことを繰り返してしまうことになる。

また別の見方で言えば、失敗を恐れることができないということは、事の重大さが分かっていないということにもなる。 「これを失敗するとどうなるのか」がひしひしと理解できたなら、失敗してはいけないと思うだろう。あるいは失敗することを恐れるという気持ちが生まれるものなのだから。

だから、ポイントは失敗を恐れる気持ちもあって、そしてその不安とうまく共存していくということ。 どちらが欠けてもジャンプアップは見込めない。

良い意味での失敗を恐れない心とは、失敗したときの事の重大さを理解し、それでも尚かつ不安ばかりに苛まれず、成功のためにすべきことを着実にこなすことを言うのだと思う。

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なぜ赤の他人とは深い議論が出来ないか

相手の言いたいことをちゃんと把握できてこその議論だと思う。その「ちゃんと把握でき」るとはどういうことなのかを考えてみると、以下で言う「面」で捉えることに相当しているのだろう。しかし往々にしてそれがうまくいかないことがあることについて。

点で捉える

(あまり親しくない)他人に対してピンポイント(点)でしか伝えられない。 つまり広がりを持った物事(面)を人は伝えられない。

たとえば、ヨシオちゃんがトミーと歯ブラシの話をしていたとしよう。 トミーは世間の歯ブラシ事情に詳しく、どのメーカの歯ブラシが良いとか悪いとか、マニアな話を繰り広げてくる。 ヨシオちゃんは別に歯ブラシなんて「どうでもいいや」と考えているけれど、トミーとは恋敵なので負けたくない。そこでトミーにうまく話を合わせている。

トミー:リーチの立体サイド極細毛(1が最高にクールなんだ!
ヨシオ:そうだね、クールだよね!

みたいな会話が延々と続く。 こっそりとヨシオちゃんは、歯ブラシ事情に精通したトミーが言っていた「リーチは最高にクール」な話をモモカちゃんに、さも自分の話のように話したとしよう。 付け焼き刃の知識で話すヨシオちゃんはきっとこう言うだろう。

「リーチは最高にクールで、他のはもうだめだめさ」

面で捉える

実はトミーが言ったのは「リーチの立体サイド極細毛が画期的で最高にクール、他の歯ブラシにはないもの」という意味で、決して「他の歯ブラシはだめだめだ」なんてことはなかった。 他の歯ブラシにも違う部分でクールなところがある。

だがヨシオちゃんは「リーチは最高にクール」=「それ以外はだめだめ」ということだと受け取ったのだ。これはピンポイントな伝わり方をしたためだと言える。広がりをもった伝わり方とは、上のような例で言うと「リーチは最高にクール」≠「それ以外はだめだめ」ということだ。

いやいや、それならば「それ以外はだめだめというわけでもない」と敢えて付け足せば良いではないか? これで広がりを持たせることが出来るではないか、と思うだろう。 実際、「リーチは最高にクール」発言よりかはピンポイントでなくなり、広がりが得られるだろう。 それは確かに認めるが、結局のところ、そうすることに意味がないと分かる。

なぜならトミーが「それ以外はだめだめというわけでもない」と言ってしまえば、途端に話がややこしくなり、歯ブラシに無知なヨシオちゃんは「どういうこっちゃねん」と訊きたくなる(2。 トミーが言いたいことは、あくまでリーチの立体サイド極細毛のクールさであって、それ以外は二の次だから、ややこしくなるのだ。

それではピントがズレて伝えたいことがぼやけてしまう。 ピンポイントなことさえ伝えられない。 はっきりと伝えられるところがあってこその広がりなのだ。

有意義な議論をするためには

では、全く広がりを持った話はできないのかということになる。 結論から言えば、そういうわけでもない。 なぜならもしもヨシオちゃんが、それなりに昨今の歯ブラシ事情に関して知識があれば、話は別だと言えるから。 つまりヨシオちゃんに敢えて「それ以外はだめだめというわけでもない」と言わなくても、ヨシオちゃんが空気を読んでそうなのだろうと思い、あくまで確認のために「それ以外の歯ブラシは別にだめだめというわけでもないんだよね?」と言えばよい。 話は本筋から離れず、尚かつ広がりを持って、確かにピントもズレていない。

コンセンサスを得られるということは、ある程度の前提をお互いが共有すること(3。 それはつまり“この人はこういう人”という認識がある場合に成り立つことで、逆に言うと、記事の冒頭に括弧で書いてある(あまり親しくない)他人に対しては無理だという話だ。

  1. 詳しくはhttp://reach.jp/products/brush/shisyu.html参照のこと。 []
  2. ポイントはヨシオちゃんが歯ブラシ事情に無知であることだ。でトミーはそれを知ってか知らでか、自分と同等の事情通だと見て話している。 []
  3. まぁ同じ前提に立つという時点で、何だか限定されるわけだが。 []
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死刑制度の賛否について

死刑廃止論者に対しての問いかけ

死刑制度を採用している日本でも、その制度について賛否が別れている。 ここでは、しばしば持ち出される一つの問いかけ(というか指摘か)のことを考えたい。 それは死刑制度の否定派へと向けられたものである。

「死刑制度を否定する人は、もしも自分の知っている人や愛している人が殺されたとしても、今と同じように死刑制度に反対するのか?」(1

これに対して、すっかり冷めてしまった見方をしているのならば「友人を殺されたときの気持ちなんて実際にそうなってみないと分からないだろう、だから分からない」という考え方もできる。 けれども、それでは実際に分かろうとしていないことになる。 相互理解の第一歩はお互いが歩み寄ること、それはここでも同じはず。 その努力はしたいと私は思う。 つまり、友人を殺されたことがないけれども、友人の死に悲しみ、その死を招いた相手を恨み憎むものだろう―その悲しみがどれほど深いものなのか、また恨み辛みがもたらす闇がどれほどなのかは量りかねるが―と推測くらいはできる。 それから順当に考えるならば、確かに「到底アイツを生かしておけない、死刑を!」となりそうだ。 じゃあみんな、死刑賛成になるじゃないか、という話になってくる。

確かにそうなりそうなものだが、今は死刑という制度を考えなければならない。 上のたとえ話は、詰まるところ―制度について考えているように見えていても―「友人を殺したアイツに友人と同じ死を!」と言っているに過ぎず、別に死刑の制度については賛成も反対もしていない(現在は日本では死刑制度があるから、賛同はしている)。

考え方のピントが少しズレていると言いたい。 もしも日本が今まで死刑制度を導入していなかったなら「終身刑」を求めるかもしれない、ただただ極刑であってほしいと望むというような可能性はないわけでない。 よって、必ず「死刑制度に賛成」に落ち着かなければならないこともない。 つまり「死刑制度を否定する人は、もしも自分の知っている人や愛している人が殺されたとしても、今と同じように死刑制度に反対する」可能性は残るということ。

制度として考える

まず第一に「死ぬことで、犯した罪は償えるのか」と考えることが妥当なように思われる。 なぜなら「償えない」という話になるのなら死刑制度など廃止するに超したことはないのだから。

ところでそれ以前に、そもそも犯した罪は償えるものなのかが疑問だと考えるかもしれない。 だが人間は誰しもが過ちを犯すと考えるならば、償えるものだと考えてもいいのではなかろうか。 ただ、この考え方は、非常に難しい。 と言うのも、過ちが殺人などであった場合、この考えを遺族に向かって平然とは言えないだろうから。 確かに理性的に考えれば、加害者は自分の犯した罪を償うことができる、その可能性はないわけではない(と考えたい)。 だが、犯した罪が消えるわけではないのだから「必ず罪は償える」と一般的に言い得ない。

とりあえず、罪は償える余地があるとして話を進めるしかないように思う。 そうでなければ、決して過ちを犯さない人間しか認めないことになるのだから、それではあまりに妥当だとは言えない。

果たして死ぬことが、本当に犯した罪を償うことになるのか。 罪を犯した自分が死ぬことで、その罪さえ赦されるものなのか。 いまところ私には分からない。 だが、憎しみは、また新たな憎しみを生むことを私は知っている。 被害者に遺族がいるように、加害者にも家族があるだろう、ただ一人で生きてなどいないだろう。 負の連鎖を断ち切る――「断ち切る」とは、どういうことなのだろうか。

こんなときにいつも思い出す言葉がある。 宮崎駿の映画で、風の谷のナウシカというものがある。 そこでは自分たちを利用して殺そうとした人間を「仕方がなかった」と言い、何の罰も与えずに赦してエンディングを迎えている。 「仕方がなかった」と言える人で、私はありたいと思う。 だが、それを自分以外の誰かにも求めることは、決してしてはいけないのだとも思っている。

答えが出ないままだが、別の問題を考えてみることも必要だろう。 「犯罪者であろうと人である限り、人の命を絶つことが是認されていいのか」という問題も看過できはしない。 死刑という制度は、命の尊厳というものに大きな疑問を投げかける。 しかし私は、これに対しても、また何も言えない。 是認されてはならないと確かに思っているが、是認せざるを得ないのかもしれない。 死刑になって当然と言われるほどに重大な過ちを犯したと誰もが思う罪深い人間が、本当にいないとは言い切れないのだから。

ただ一つ言えること

制度というものを考えることは、とても難しく、感情だけでは制度は論ぜず、そうかと言って、感情がなければ制度を考える意味がない。 それだけは確かなことだと私は思っている。

もしも私が答えを得たとして、それは私の答えであって、ほかの誰かの答えでさえあるとは限らない。 ほかの誰かの答えと私の答えとが相容れない場合だってあるだろう。 違った答えがあったとしても、制度とは同じように私にも他の人にも適用されるのだから、万人が納得できるような「答え」はないのかもしれない。 では、そもそも論ずる意味がないではないか?ということになるかもしれないが、論ぜずして人の生死を左右されるような制度を残しておくことを、私はしたくない。

  1. 余談だが「大罪を犯した人間が刑務所の中で生きている間、その人間は国民の血税でまかなわれているんだ!生かしておく義理はない」などと言う暴言を吐く人もいる。 受刑者はただのんびりと刑務所で生かされているわけではないのだから、暴言だと言わざるを得ない。 参考までに刑務所生活。 []
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選べる場合

「選ぶ」とは

ここで言う「選ぶ」とは、選択肢がまず用意されて、どれかを選ぶ場合について。 たとえば、レストランでメニューを見るときや、保険を選ぶときなど。 「人生は選択だ」とか言う意味での選択ではなくて、もっと具体的な場合の話。 Continue reading

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バカになれない人間は馬鹿だ

「こうすれば速い」と考えることは大切だ。
だが速いだけで質が低下しては意味がない。

そんなことは、当たり前だ。
だが「速い」は楽だ。 手を抜くことで速くなる、楽になる。

質を低下させないために、遅くなろうとも手を抜かない。
これを出来ない人間は馬鹿だ。

「ずっと馬鹿のように遅くても質を落とさずにやれ」ということではない。
繰り返すたびに人は慣れていく。
慣れれば楽になるし、速くできるようにもなる。
だが質は低下しない

慣れるまでの辛抱を出来ない人間は馬鹿だ。
バカになる前から馬鹿な人間も馬鹿だが、馬鹿でない人間がバカにもなれないなら、それは実は馬鹿だからだろう。

大切なのは自分の労力の大小ではなく、その成果の大小である。
労力に見合った成果を出すのが最低ライン。
かけた労力よりも大きな成果を出せるようにならなければならない。
そのために、馬鹿みたいに決まり切った紋切型を繰り返さなければならない。

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