数字で判断するのは良くない ¶
数字で判断されてしまいがちなものの中で、戦争がしばしば挙げられる。それは至極当然だと思われるかもしれない。確かに人ひとりの生命の尊厳を、言葉に含ませるということ自体に無理があるかもしれない。だからと言って、一人ひとりの生命の尊さを諦めてよいことにはならないはずだ。果たして「第二次世界大戦で云十万、云千万の人間が死んだ」という表現の中に、本当に、一人ひとりの命の重さ、尊さを含ませようという気持ちがあるのだろうか、そうあろうとしているのだろうか。
現代において、数字が先行し情報が現実味を帯びていないように思えて仕方がない。ただ「人が死んだ」という、そんな無味乾燥な文字の羅列がメディアで飛び交っている。ニュース番組を見ていて、誰かが誰かを殺したというニュースをキャスターが読み上げて、直後には笑顔で動物園の人気者を紹介する、そんな状況が最近では頻繁に見受けられる。人が死んで平然としている。無情極まりない。
たしかに、ニュースキャスターが一々にニュースに感情を込めて表現していたらニュース番組なんてどれだけ時間があっても足りなくなるだろう。また「客観的事実を伝達することにニュースの意義がある」ということも考えられる。
けれど、それ以前にまず人間であるべきではないのか。詰まるところ、前者に対しての譲歩はせざるを得ないにしても、後者について―客観的事実の伝達に意義を持つがための無感情―は、そのニュースを伝えること自体の意味を無くしてしまっている。いま現在、多くの場合、ニュースはただ「ニュース」として―単なる客観的な事実として―受け取られて“ああまた人が死んだんだ”という感覚で終わっている。そのような同じ繰り返しが起こっている。人が死に、殺され、ニュースで報道され、また人が死に。そんなことを伝えたいがために、ニュースはあるのか。
伝えたい何かは、そんなものなのか。
客観になったときリアルとしてはもう… ¶
どんな人間の生死がそこにあろうとも、客観になった時点で、僕は、リアルとしてはもうだめなんだと思う。 数字にしろ何にしろ、客観的な何かは、感情がなく、それゆえに死物に等しい。
そうだと言わざるを得ない。 「人が死んだ」と言われて、涙を流して悲しむ人はいないのだから。 その「人」には、名前があったろう。 もしも名前がなかったとしても、生んでくれた親はいるだろう。 単なる言葉である「人」以上の誰かがそこにいたこと、そして「死んだ」ということ。 そのことを忘れてしまっては、人間として泣くことはできない。
言葉に感情を込めることは難しくても、何かを伝えるときに感情を添えることはできないだろうのか。
言いたかったこと ¶
以上のようなことを踏まえて、僕は記します。
2005年4月29日現在、JR福知山線脱線事故からもうすでに4日も経過してしまっています。死者が104名とのことです。大勢の方々が亡くなりました。事故が起こった一因に、JRの体制が無茶なダイヤグラムグラムを組み、無理にその通りに運行させていたこと、旧ATSの使用を継続していたことがあったようです。亡くなった方々には心よりご冥福をお祈り致しますこと、また遺族となってしまわれた多くの方々のやり場のない気持ちが少しでも穏やかになりますように。
JRの脱線事故、その後 ¶
Yahoo!Japan のニュースをチェックしているけれど、何とも言い難いものを見つけてしまった。 JRの脱線事故に関連したこと。 事故というカタチだから被害者・加害者の区別なんてないはずなのに、 事故で犠牲になった方の遺族や友人や恋人などがJR西日本の社員に暴行をしているという。
なんとも言い難い事件だった。 悲しいから人を殴る。憤ろしいから人にあたる。 まさにそのレベルでの話だろうと思う。 ダメなのは分かってると思う、暴力を振るっている側の人も。
もしかするとそんなことを思ってない人もいるかもしれない。 そんな人の中には「相手は暴力を振るわれて当然だ」とさえ思ってる人もいるかも知れない。 「当然」とは浅はかだと、僕には思えて仕方がない。
誰が悪いのか?誰かが悪いのか? ¶
事故を起こした人が悪いのか、 事故を起こさせた会社が悪いのか、 事故を防ぎきれなかった人が悪いのか、 電車を利用する人たちがルーズに乗り降りして、時間を無駄に食っているがためにダイヤグラムが乱れて、運転手を焦らせたのか。 ダイヤグラムが乱れることさえ考慮にいれてダイヤグラムを編成をしなかった会社が悪いのか。
1日や数日では、運転手の精神状態が浸食され尽くすには至らず、事故は起こらないだろうと思うけれど。
何が「当然」なのだろうか ¶
電車が安全だって、誰が保証するのだろう? 会社が保証するからって、事故は絶対の絶対に起こらないと思っているのだろうか? 事故が起これば、会社を責める? なるほど、責める権利を得るために金を払って乗っている?
普通は違うのではないか。 乗せてもらってるからお金を払ってるわけで、 安全を保証するのはサービス。 「事故が起こって亡くなった命は、補償して返すことなどできない。」 これは分かり切ってることではないのか。 返ってくるはずのないものと分かってて乗車するのは、 実のところ、「運転手に命を預けた」ってことと何も変わらない。
運転手が責任を放棄して暴走して起こした事故じゃないでしょう? オーバーランをしたのはボーッと考え事をしていたからでしょう? ボーッと物を考えることなんて無理だから、きっと精神力が枯渇していたからでしょう? そんななか、時間に追われていたわけでしょう、たぶんは。 死人に口なしなのだから、真実は分からないのだけれど。
ひとつ言えることは「人間、いつ死ぬか分からない」ということ。 その心積もりをもって生きないと、「生きてて当然」とか「死なないのが当然」とか「安全で当然」だとかになってしまう。
だからと言って、 ¶
自分の命は確かにいつ死ぬか分からないのだと思えたとして、自分以外の他の誰かの命まで「いつ消えてしまってもおかしくない」と思って生きてはいけない。 少なくとも、今回のような事故は滅多に起こらないのだ。起こってはいけない。 昨日まで笑顔でいた顔が無残にも冷たくなって、そこにあるとき、悲しみや苦しみ、辛さ、如何ともし難い想いはこみ上げてくる。 たとえ、どれだけ「人間、いつ死ぬか分からない」と思っていようとも。
それが人間なのだから。
やり場のない想いを、少しでも和らげることができるなら、と僕はただただ思う。