言っていいことわるいこと ¶
「言っても言わなくてもいいことなら、言った方が良い」という立場の人もいれば、「言っても言わなくてもいいことなのだから、言わない方が良い」という立場の人もいる。
言わなきゃいけないことは、そりゃもちろん言わなきゃいけないだろう。言っちゃいけないことも、同様に言っちゃいけないんだろう ((何が言わなきゃいけないのか、何が言っちゃいけないのか。それが問題ではあるけれども。))。そういう部類のことはハッキリしているから、言うべきか否かの問題にはひっかからない。
どちらとも判断のつかないこと ¶
ところが「(言ってもいいけれど)言わなくてもいいことなら言わない方が良い」とも考えられるし、「(言わなくてもいいかもしれないけれど)言ってもいいことなら言った方が良い」とも考えられる。 これについては、どちらが間違いで、どちらが正しいと言うのはおかしいように思う。
世の中の人は、きっとその二つの考え方のうちどちらかに別れるのだろう。
たとえばなし ¶
どうしてこんなことに思い至ったのかというと、それは本当に些細なことだった。まだ一人暮らししているとき、それなりの頻度で実家に帰っていた。実家に帰る度に、おばあちゃんが「帰ってきてくれて嬉しい」と言っていた。そして実家から帰っていく度に「寂しい」と言ってくれていた。初めは親も同じような気持ちだったのか、それなりに出迎えてくれたりしていた。帰る頻度がかなりのものなので、そのうちに親の対応は普通になっていった。変わらないのはおばあちゃんの対応だった。
僕の心情としては、本当に寂しいときだけ「寂しい」と言うもんなのだと思っていた。「本当に」というのは、耐えられないくらいにという意味。だから、おばあちゃんの「寂しい」という言葉を真に受けて、本当に寂しがってくれているのだと思っていた。でも、何度もそんな場面に遭遇しているうちに、案外にそうでもないんだと気付いた。僕が帰ったあと、けろっとしているらしい。当然と言えば当然なのだが、拍子抜けしてしまった。
僕にとっての「寂しい」は、寂しさに耐えられないときに出る言葉だった。でも、おばあちゃんにとっては寂しさを感じたときに出る言葉なのだろう。それは耐えられないほどの寂しさである必要はなく、幾ばくかの寂しささえあれば発するに足るようだ。
僕は「耐えられるのならば言わなければ良いのに」と思ってしまう。本当に寂しいときに「寂しい」と言うことで、相手に寂しいんだなと伝わると思っているから。だから別に言わなくてもいいことのように思えた。でも寂しさを感じるのなら、耐えられようとも、その寂しいという気持ちを伝えてもいいのだろう。別に言ってもいいことだ、とも思う。
だから言うのか。だから言わないのか。
客観的に判断して ¶
だから言わない派の人は、当然、口数が少ない傾向にある。だいたい言うべきことしか言わないのだから。 逆に、だから言う派の人は、口数が多いように思う。言わなくてもいいようなことを言うのだし。 どちらがよい・わるいの話ではなくて、ただそういう傾向にあるということ。
ただ、タイプによって“ここぞ”というときの言葉の重みの掛け方が変わってくる。
だから言わない派は、率直にものを言えば、それで十分重みが生まれるだろうと思う。ただし相手に「伝える」ということに気をつけないといけない。ちゃんと伝わってるかを確かめた方が良いように思う。口数が少ないと、どうしても相手に自分の考えが伝わっていないことが多いから。ここぞのときの、重みのある言葉を発せたとして、それが相手に理解されないと意味がない。そのことを意識しておくと良いように思う。
だから言う派は、逆に言葉を選んで、相手に“いつもと違う”ということを意識させるような言い方でないと重みが生まれない。「普段とは違うのだ」ということが伝わらないと、伝えたいことが、その重みを伴って伝わらないだろう。もしかすると蔑ろにはされないまでも、軽んじられるかもしれない。それでは意味がないのだから。