最終更新日: 2023/03/02 作成日: 2011/10/14

ペンネーム・肩書き

じぇしを。 研究者(物性物理理論・9年目,2023年03月現在) twitter

一行紹介文

「好物は、すきやき。あと美人。それから酒。」

信条

真摯でなければならない。ぼくは、そう考えています。それはつまり、ひたむきに自分と向き合うこと、丁寧に人と接すること、真面目にものごとに取り組むこと、あるいはそれを存分に楽しむこと。このような真摯さを他人へ求めることはありません。ただ自分が自分であるために唯一必要なものが、この信条なのだと思っています。

また、純粋に真摯さに根ざした行動を、ぼくは否定しません。たとい卑屈や不遜であったとしても、それが惰性や妥協でなく、自身に対する真摯な在り方としてならば。妥当という言葉は、妥協という言葉と似ていますが、真摯さの有る無しで決定的に異なっているということを付け加えておきます。

以下は、この信条に基づいて構成されています。

思考回路

インターネットでは他者とのコミュニケーションに言葉を用いる場合がほとんどですが、ぼくは言葉をあまり高く評価していません。ぼくは、人は他人と言葉だけで分かり合えないと思っているわけです。文字だけでの場合は特に、その思いを強く持っています。 メールや掲示板の書き込みなどがそれです。

書き手と読み手という視点から見て

書いてある文字が示すことが、ぼくの書いているときの意図と誰かが読んでいるときに受けることとを常に一致させてくれるとは思っていません。 つまり、一致させてくれる時もあれば、そうでない時もあると言っているのではなく、常に一致しないということです。 もちろん両者が一致するように、出来る限りの努力―書き方や読まれ方を考えるなど―をぼくはしてはいますが、どうにもならない部分が言葉には含まれていると思っているのです。

「だいたいはそういうことだろう」というところまでは一致させることが可能だと思います。 あまりに否定的だと思われるかもしれませんが、道具としては、文字に過度な期待はしない方がいいと思っています。

言及しない場合は、限定されない

言及しない場合は、限定されないと思ってください。 例えば「これが良い」と言ったとすると、「これ」以外のものが「良」くないという意味を示したりする場合がありますが、 ぼくは別にそういう意図をもって書いていないこともあります――そういう意図をもっている場合も、もちろんありますが。 あくまで「これが良い」というのは「これ」が「良い」のであって、 「これ」以外については言及していないので「良」くないのかどうかは常には分からない、ということです。 「裏を返せば」というような考え方は、その「裏」が必ずしも確かなものとして考えられないような場合、無意味なのです。

端的に言えば、それは排中律に関する話で、表現についてはそれが必ずしも成り立つとは限らないと、ぼくは考えています。

「しない」と「できない」

「しない」という表現が示すことが必ずしも「できない」と直結するわけでありません。 他人からすれば「しない」というものは「できない」ということと何ら変わらないでしょうが、 それは単なる見た目の問題であって―見た目が問題にならない限りは――両者は違うと思っています。

  • できないからしない
  • できないけれどする(しようとする)
  • できるからする
  • できるけれどしない

という風な分類が可能だと、ぼくは思っています。 見た目だけが問題な場合―すなわち他人のことについて―は「できる」・「できない」の区別はあまり意味がなく、「する」か「しない」かの二つが重要であるでしょう。 けれど、ぼくは*「できるけれどしない」という在り方が重要であると思う*ので、見た目だけで論ぜない場合は上記のように区別します。

「事実そうなのだ」と認めるとき

「事実そうなのだ」と認めるとき、だからと言って「そう」いうことがいいのだと思ってはいない場合があります。 つまり事実であることは認めるが、それが「好ましいことだ」と思って認めているわけでない(場合がある)ということです。 ただ、認めているという時点で、それを受け入れているということにもなりうるわけで、 ということは少しは是認があってしまうわけですが「どうにもやむを得ないのだ」と思って記しているということです。

出来るならば「そう」ではない何かであることを望んでいる場合がある、ということです。

あまりに当然だと思える場合

もしかすると書いている内容が、あまりに当然だと思える場合があるかもしれません。 しかし“あることを言われて、それが当たり前だと思うこと”と“あることを言われる前から当たり前だと思っていて、それを言われるということ”とは明らかに違うのだという意図があって記している場合があります。 自覚があるのとないのとでは、一つの行動をとってみても差違が出てくるのだということです。 また当たり前なことが大切だったりするとも思っているのです。

別の言い方をするならば“言われるまで気付かないようなこと”と“言われなくても分かっていること”という関係になるでしょう。 当たり前なことだからこそ言われなければ気付かないようなこともあるので、わざわざ述べるのです。

その行動に対する自覚について

何かをするとき、それが攻めの一手なのか、それとも逃げの一手なのかを考える場合があります。 それは、することが(見た目には)同じでも自覚があるのとないので(中身が)違うと思うと上述しましたが、 自覚がある場合にそれがどういう自覚なのかが、また重要になってくると思うからです。 「攻め」と言うのが、前向きという意味なのか積極という意味なのか、 それともそのままに攻撃という意味なのか、 はたまたそれ以外の意味なのかは場合ばあいによって違うと思うので、そこはニュアンスで。 もちろん「逃げ」というのも同様ですが、「攻め」と対比させて「逃げ」があるというわけでなく、 「攻め」というのもあり「逃げ」というのもあり、また別の自覚もあるかと思って使っています。 単純に「攻め」と「逃げ」しかないわけではないということです。

適応範囲を考慮して

だいたいですが、何かを考える場合はその適応範囲を考慮しています。 その一例として、時と場合とを意識的に考えて、それが妥当なのかどうかを判断するということです。 世の中は妥当かどうかということに重きが置かれる場合が多いからです。 それゆえに「当たり前だ」と思われたり、当たり前のことが大切だと思っていたりしているのです。

言葉と、言葉の示す実体との関係

ぼくはしばしば、言葉と言葉の示す実体との関係について記す場合があります。 たとえば「りんご」という言葉について、“「”と“」”とで囲まれた「りんご」は、りんごという言葉を示すつもりで用いていますし、りんごと平文で用いる場合は、「りんご」が示す実体、つまり木に成っていたり、スーパーで売っていたりするものを示しています。 この区別がなければ、非常に表現・描写に制限が生まれますが、これはだいたい他でも通用する表現法です。 もちろん、誰かの発言としても“「」”を用います。