最終更新日: 2020/06/09 作成日: 2020/06/09

さいきん老化について考えている。果たして「老いる」とは何なのか、と。

還元主義的に考えるなら、肉体の老化は細胞の老化に還元されるはずで、そうすると「細胞」単位では老化は定義できるのかもしれない。以前にテロメアが短くなっていくことが老化と繋がっているという風な話を目にしたことがあるが、今でもその学説は正しいのだろうか。生物系の定説はよく覆るという勝手なイメージを抱いている。

価値観の老化については一つ前の文章でも触れているが、あのときは価値観を生き物のように喩えて老化すると表現していただけだった。いまは生き物の老化それ自体に興味がある。

「老いる」とは何か。まだぼくには端的に表現できないでいる。

こういうときは、やはり具体的な場合を考えたり、理想化したり、何かに喩えたりすることだ。今回は、理想化して、具体的に考えてみる。まずは「体力」というパラメタを導入しよう。一口に体力と言っても、いろいろな意味になり得るから、ぎゅっと制限すると、「体力は寝ているとき以外は減少していき、寝ているときには増えるが、ある上限値以上には増えない。活動の激しさに比例して減少する度合いは大きくなる」と決めてしまおう。寝る以外に増やす方法がないのは理想化が過ぎるけど。

さて、老化はどんな風に表せるだろう。

一つの老化の現れは、体力の上限値の減少があるだろう。あるいは、激しい活動をしていなくても体力の減少が著しくなることでも老化を表現できると思う。

なるほど。老化は、一つのパラメタを考えてみても複数の表現方法があるわけか。となると、「老化」は複合的な作用に対する名称であって、何か一つのパラメタの変化だけでは表せないのではないかという気がしてくる。これは厄介だ。

「老化とは何か」という問いが悪問だった可能性がある。あるいは「老化とは色々な部分の衰えである」と答えたのちに「色々な部分とは」という但し書きを付けるしかない気がしてきている。