最終更新日: 2019/01/21 作成日: 2009/05/02

成績は良いに越したことはない。ただ、成績が悪いからと言って、だから何だ?とは思う。成績とは一つの尺度なだけだということ。

「成績が良くなければ意味がない!」と言ってしまうこと。これは極論になってしまう。なぜなら成績は、優良があり、可があり、不可があり・・・優良だけしかないことなどできないのだ。言うなれば、順位をつけるということ。良い成績のほかが、決して意味がないわけではない。

だからと言って、これも極論になってしまうだろう。「成績が良いから何だ!成績なんて関係ない!」と言ってしまうこと。コンプレックスに近いものを私は感じてしまう。 成績には少なからず自分というものが繁栄されているのだから、関係ないとは言えない。

成績は良いに越したことはない。ただ、悪いからと言って何だ?と私は言いたい。それは区別であって、差別ではないはず。未だに世間では成績が悪ければ、評価されないのだろうか。成績しか見ないのだろうか。

成績の良し悪し

この文章は成績しか見ないだろう世間に対する批判というモチベーションで書かれている。そのために成績という評価基準をあまり重要なように書いてはいない。成績は重要だ。ただ、成績では評価しきれないものにも眼を向ける必要があるのではないか?と言いたいということ。

今さら感のある話ではある。もう少し歩を進める必要があるのかもしれない。「他にも基準があるのではないか?」と言いたいのだが、逆に「では、その他の基準とは具体的にどのようなものがあるのか?」と問われると、少し考えてしまう。

成績について

そもそも「成績が良い」とは何だろう?この問いから入れば、その答えが他の基準を見つける手助けになりそうだ。思うに、勉強に限って言えば、テストでよい点をとれると「成績は良い」のだろう。確かに点数が高いということは問題を正解できるということになり、それは即ち「勉強が出来る」となるに相違ない。勉強以外のことについても、テストなどのまず問いありきという形式ならば上のように「成績が良い」と言える。さらに「問い」という表現を、抽象的に「形式」というもので捉えてみたら1 、スポーツなどの事柄にも「成績が良い」と言える。

なるほど、成績という基準で評価するには形式が必要だ。裏を返せば、形式に沿わないものに対しては評価が定まらない。いま私は、その成績という評価基準では定まらない部分が蔑ろにされてはいないのかと言いたいのだった。

今の問題は「他の基準とは、たとえばどんなものがあるか?」だが、困ったことになった。それ以前の段階に問題があった。評価基準は、概して形式なるもので捉える必要があると言ったが、正確には評価基準とは形式そのものである。尺度を定めるものは、その測り方の形式そのものなのだから。つまり基準が増えるということは、それ即ち形式が増えるということになる。成績以外の評価基準が蔑ろにされるのは―現在においては―蔑ろにされざるを得ないからのようだと思えてきた。一つの評価基準に沿って評価するのでさえ手間と暇とが相当かかっているのに、さらに他の基準を採用して、それについても同様に面倒な行為をしなければならないことになるのだから。

それならば、一つの評価基準を“もっと公正公平に、かつ正確に”と考える方が賢明なのかもしれない。また補助的な役割として他の評価基準を採用するということも考えられる2

他の基準で評価されるべき才能が、成績という基準によって評価されたがために埋もれてしまったとしても、それは運がなかったとして、やむを得ないのかもしれない。諦めるわけでなく。評価する側が、評価の形式を適切に―制度的に、またはそれ以外の何かによって―選べなかったのかもしれず。評価される側が、自身にとって適切な評価基準を採用している相手を選ばなかった、または選べなかったのかもしれず。それを「運がなかった」と言うように、私は思う。

ただ、成績は良いに越したことはない。

勝ちに拘る

でも、勝ちに拘るということが必要かもしれない。

ともすると、こんな考え方ではいけないのかもしれない。正確には、他者への意見としては「成績は良いに越したことはない(つまり、悪いからと言って何だ)」と思うことはそれでよいだろうが、自分に対する在り方としてはそれではいけないのだと思う。成績は良くなければいけない、そう思うことが必要なのかもしれない──もしも“上へ行きたい”のであれば。

「勝つことが全てではない」とは、正論だ。だが、それは負けたときに言う台詞ではない。勝った人間が言ってはじめて意味を成すはずだ。もしも負けた時にそう言い放ったところで、それは負け犬の遠吠えとして片付けられてしまう。

負けたときの悔しさを知らない人間に、勝つことの素晴らしさは分からない。負けることの悔しさは、勝ちに拘らなければ、生まれない。つまり「成績は良いに越したことはない」というようなアマい考えではいけないのではないか、と思うのだ。勝ってから、それから「勝つこと」の他のことに興じる。自分にはそういう厳しさが必要だろう。 重ね重ね言うが“上へ行きたい”のであれば、だが。

勝負の世界が全てか

私が言いたいことは勝負をするならば―評価される対象になるのならば―勝ちに拘ることが必要であるということだ。勝負自体しないのならば、勝ちなどに拘る必要など全くない。それが何度も出てきた「“上へ行きたい”のであれば」という言葉の真意である。競争原理で成り立つ現代社会において、まるで勝負の世界が全てかのように思われるときがあるわけだが、そんなことはない。それを忘れずに「成績は良いに越したことはない」と思っていられることが善いように思う。そして、やるからには全力で。


  1. 野球に喩えるならば、「問い」とはピッチャーがどんな球種を投げるかということで、「形式」とはボールを投げるピッチャーが誰かということになる。 ピッチャーが変われば同じカーブでも曲がり具合も球速も違う。 それでもヒットを打てるのであれば、それは「成績が良い」と評価されるだろう。
  2. 試験が筆記試験と面接とがある場合などが、それだろう。双方に同じ比重をかけることをするのは賢明でないだろう。 なぜなら評価基準が違うのだから、相反する場合があるのだから。 まぁ相補的に働く場合も、ないわけではないだろうが、それはお互いの役割が確実に定まっているときに起こることで、曖昧な意味で「同じ比重をかける」ときには、起こりえないだろう。