最終更新日: 2012/01/26 作成日: 2011/03/21

他人事と思わないこと。そこから感情が生まれるのだと僕は思う。それは間違いじゃないと思っている。

でも、他人事だと思っていないと生きていけないことの方が多い。今回の大震災を他人事と思わないでいたけれど、新潟県中越(沖)地震のときは当事者意識がなかった。チリの大津波のときだって、ニュージーランドの地震のときだって何食わぬ顔で生きていた。イラク戦争のときだって、9.11のテロのときだって。だからこそ僕は自分の平凡な生活を、ときに慌ただしくときに穏やかに過ごせたんだと思う。

「今回は特別に他人事と思わないわけ?」 ——確かに規模は日本有史以来、史上最悪だと言われる。 「ということは、規模の問題で態度を変えるってこと?」 ——規模の問題なのかもしれない。それはつまりテレビや新聞、ネットで情報として流れる量に影響している。自分の生活に関与している部分が、それらに影響されている。今回はあまりにも影響力があったために当事者意識を持ったということになるのかもしれない。

もしくは、そこに自分の関係する人がいるとき。これは規模に関係なく、その人を通して自分も当事者になる。メディア(媒体)の影響からではなくて、直接的に当事者になる。 この場合の方が、強い当事者意識を持つのだと思う。


まさに今ニュースではリビアへ軍事介入が始まったと言っている。でも、僕にはあまり現実味を帯びて伝わってこない。

他人事として過ごすことで、普通の生活ができる。薄情だと言うひとがいるかもしれないけれど。生きるってそういうことでもあるのだと思うんだ ((もちろんそういうことだけでないと思います。))。

厚い温情をもった人は、確かに自分の知りうる限りの哀しい情報に感情を抱いてしまうのかもしれない。それでも自分の知ることのできない哀しい情報には、感情をもつことはないのだけれど。

こういう考えを書いた本があったのを思い出した。『悼む人』というタイトルの本だった。僕の考えも、同じところに行き着いてはいたけれど。僕は薄情もの。

偽善や欺瞞に思えてしまうような、とても危うい行為ですね。「他人事と思わない」というのは。