最終更新日: 2019/01/21 作成日: 2019/01/21

研究をするにしても勉強が必要だ。と言うと、少し語弊があるように思う。「研究」という言葉は、広義では「物事を学問的に深く考え、調べ、明らかにすること」なので、勉強と重なる部分も多分にしてあり、研究すなわち(自分なりの)勉強ということとも捉えられる。別に、まだ誰も知らない物事を明らかにすることだけが「研究」ではないということ。夏休みの自由研究を「研究」ではないと言うのは乱暴な意見だと思う。

だから、ここでは「研究」は、まだ誰も知らない物事に対してのみ用いるという制限を加えておく。すでに誰かが明らかにしたことに対しては「勉強」という言葉を用いることにする。

この文脈で勉強と研究を捉えると、勉強の延長線上に研究があるように思える。それと同時に、何か誰も知らない新しいことを見い出すためには、勉強が必要になることも分かる。なぜなら、「これは誰も知らないことだ」と認識できるためには、すでに知られていることと、そうでないことの区別ができなければならず、それは勉強によって初めて可能となるから。

こんな風に研究という営みを考えると、なんだかあまりワクワクしないかもしれない。それは、「勉強」という言葉に面白くないという印象を抱いていたり、あるいは「勉強の単なる延長線上が研究」と思って、勉強と研究が質的にあまり違わないように感じてしまうからかもしれない。前者については、それは誤解だとハッキリ言える。「勉強」と言っても、試験や成績ありきの勉強ではなくて、ただ知りたいという素朴な好奇心に突き動かされて調べて理解すること、それを勉強とここでは呼んでいる。ワクワクしないわけがない。楽しくないわけがない。

勉強と質的にあまり違わない研究はあまりワクワクしない。残念ながら、それについてはぼくも同意する。「質的にあまり違わない」を別の言葉で表すなら、「線形で外挿できるような」とかになる気がする。裏を返せば、容易には結果を予想できないような研究はとても面白い。当たり前だ。

こんな具合に「面白い研究とは何か」を考えてみたが、ここでは動機とか理由みたいな方向からのアプローチになった。その研究が生み出す影響みたいな方向からのアプローチもあると思うし、それはまた別の「面白い」の評価軸のような気がしている。