最終更新日: 2011/10/19 作成日: 2008/06/11

自分のことがかわいいからこそ

自分のことが可愛いと「自分じゃなくてもいいんだ」と思わされるような目にあったとき、やるせなくなるものだ。 意識するほどに自分が可愛くて仕方ない、そんな人にとってもちろんそうだろうし、あまりそんなつもりで生きていない人だって、やっぱりやるせなくなるんじゃないだろうか。 アルバイトなんて、その典型じゃないのか。 別に自分がしなくても、誰かがする。 しなきゃいけないことだけれど、別にそれは誰がするかは重要でない。

そんな風に思っていた。 …でも、と思った。 アルバイトが典型だと言ったけれど、そもそも自分じゃなきゃいけないことってのは、そんなにないんじゃないか。 つまり「たまたま自分だった」という考え方が、ほとんどなんじゃないのか。 別に自分じゃなきゃいけないわけでないけれど、もう自分がすると決まったのだから、一応は自分じゃなきゃいけない。

でも、それじゃあ何だか諦めというか、消極的な受け入れみたいに感じる。 どうしても「自分でなくてもいいんだろう」みたいな心の叫びはなくならないように思う。

恋愛にだって「あなたじゃなきゃダメ!」ということもあるだろうけれど、それもあまり変わらないのかもしれない。 見た目で好きになった場合は、別に代わりは幾らでもありそうで、それこそ変わらない。 また内面に惹かれた場合についても、同じなのだと思う。 内面なんてものは少しの時間で理解されるものでないのだから、一緒にいる時間が長くなるにつれて「あなたじゃなきゃダメ」度が上がっていくんだと思う。 つまりは自分じゃなくてもよかったろうけれど、たまたま自分だったという話と何ら変わらない気がする。

どうしてこんなに傷つくのだろう

そもそも、自分じゃない誰かを想定できるというところに問題があるじゃないのか。

それほど情報が広域に分布しなければ—たとえば求人が雑誌なんかで掲載されなければ—たまたま自分だったということで、尚かつ自分しかいないということで済ませられる。 めでたく自分への可愛がりを傷つけられずに話は進んでいくだろう。 求人雑誌なんかで募集された日には、誰が応募して来るか分からないんだから、別に特別な誰かを待っていることということもない。 「別に君である必要はないんだよ、ただ人手が必要なだけ」と言われているようなもの。

傷つかないためにできること

自分でなければできないことを探すことは必要かもしれない、 可愛い自分への自尊心を守るためには。 でも、それが見つからなかったときは、死ぬしかないかもしれないよ。 「自分なんて居なくても、この世の中は何にも変わらない」と知ってしまったのだから! それこそ「誰でも良かった」と道連れに見ず知らずの人間を殺してやろうと思うかもしれない。 極端な話だけれど。 そうやって、無茶苦茶なやり方でも誰かとの強い繋がりで自分の存在意義を見出さなければ、自分が可哀想すぎると思えてしまう。 言ってみれば、自尊心を守るためというのは後ろ向きに逃げるようなものなのさ。 現実から逃げて逃げて、逃げ回って、逃げ場がなくなる。 あとに残された道は、おとなしく現実に投降してニヒルに生きるか、現実世界から逃げるか—つまり、死ぬしかない。 それじゃあ苦しい。

自分でなければダメなことを探すことは善いことかもしれない。 ただし、前向きに何かしらの使命を感じて「きっと世の中には僕がやらなきゃならないことがある」と思って探すのなら。 平たく言って積極的で前向きな一歩として探すのならそれはきっと善い。 前に進めている。 諦めないかぎり、きっと何かを成すことができる。 自分でなくてはならないもの、それは未来にあるものじゃないと気づけたとき、きっと世界は掛け替えのないものになる。

報われるために生きないこと。 それは目的ではなく、結果だ。

いま思うこと

以下はこれを書いてから時間が経って、もう一度この文章を読み直して、自分が思うこと。

自分でなくてもいいというのは、個性が生かせていないのだろうか。 自分が持っている個性を生かせていないから、自分でなくてもいいようなことになるのだろうか。 きっとそうではない。 世の中は往々にして個性を必要とするほど特殊に出来ていない。 また別の言い方をすれば、個体差である個性に頼らざるを得ないほど不安定な世の中ではやっていけない。

結局、限られた範囲内で自分らしさを発揮して、それを認められることが、現実的な可愛い自分に対する慰めになっているように思う。 こういうまとめ方がリアリストだとか現実主義者だとか言う話でなくて、夢見がちに生きていた馬鹿が現実に打ちひしがれて藻掻いて考え倦ねて出した答えが、単に現実的だったという話。

特別でありたがる、けれど現実は特別なんて求めてこない。 だからと言って「特別であろうとすることを止めろ」という話でも決してない。 平凡であろうとすることは、特別であろうとすることとあまり変わらない。 何かを成そうとすること、何かになろうとすることは、きっと尊い。