最終更新日: 2019/01/13 作成日: 2019/01/06

社会で生きていれば「一緒にいると楽しい」とか「どうしても衝突してしまう」がある。そういう個別事象の蓄積で「馬が合う」とか「反りが合わない」とか判断するものだと思う。運命的に、出会った瞬間にガッチリと馬が合う場合や反りが合わない場合もあるけど、それはちょっと話が違うので話題から除外する。話をしたいのは、あまりハッキリとはしない人付き合いでの、やり取りの蓄積から起こる話。

そもそも、ひととの距離を広めにとっているときは特段に人間関係で悩まないで過ごせる。でも、それは「実際に心理的な距離があるから」ではなくて、単に「お互いが踏み込んでこないから」というだけだと思う。都会では皆んなそれぞれに距離をとって生きている。ただ、心理的な距離なんて、単なる主観でしかなくて、離れていたと思っていたのに、知らないうちにものすごく近くに感じたりするし、その逆もしばしばある。

もう少しちゃんと考察してみようと思う。心理的な距離を「あのひとと自分との距離は100メートル」みたいに数値化できない。それは、心理的な距離が主観だから。でも、大まかには、例えば赤の他人・知人・友人・友達・親友みたいな枠組みで心理的な距離を捉えることはできると思う。言うなれば「もし仮に数値化できたとして有効数字が1桁くらいしかない」ということなのかもしれない。L.D.Landauが物理学者のランクを対数で評価したというのは理に適っている気がした。評価自体の有効数字が1桁くらいだと思えば。

これに倣って、心理的な距離を対数で測ってみると、理解が進むかもしれない。名前がないと不便なので「心的対数距離」とでも呼ぶ。赤の他人・知人・友人・友達・親友をその目盛にして、心理的距離は測る。赤の他人の心理的距離は無限大で、無限遠に離れている。

重要なことは、ほとんどのひとは“変化”でしか心理的な距離を知覚できないということ。「近づいた/遠ざかった」「重くなった/軽くなった」というのは変化の一種で、たとえば「遊びに誘った」は相手に近づくことで、「誘いを断る」は遠ざかることだと思って良いはず。その変化で、相手との距離を実感して確認する。(アクションを起こさなかったがために疎遠になるという時間変化も“変化”なのだけれど)

知人を何かに誘って、楽しく時間を過ごしたとする。もう「友人」と呼べるくらいの間柄になっただろう。心的対数距離が1の大きさで変わるということは、つまりこころの距離は十分の一になったということと見ることができる。これは、距離としては、かなり近づいたことになる。同様に「友人から友達」になると、心理的距離が十分の一になるが、「知人から友人」よりも心理的距離の変化は小さい。大雑把に、たとえば「知人から友人」で心理的距離が1000から100になったとして、「友人から友達」では100から10になるということだが、その変化量は明らかに「知人から友人」より小さいことが分かると思う。

この考えに則ってみると、「自分は友達だと思っていたのに、相手には友人くらいの感覚だった」というのは、「知人と友人との距離」に比べたら誤差みたいなもので、それほどに微妙な関係だということなのかもしれない。

話は長くなったけれど、言いたかったことは、距離の測り方が近いと「馬が合う」と言えて、逆に、測り方が全く異なると「反りが合わない」となる気がした。(尻すぼみ感のある文章になった)

余談だけど、プロスペクト理論と根っこは同じで、ひとは現状に無自覚的で、現状からの変化には敏感、ただし度合いが大きすぎる変化や、継続的な変化への感度は悪くなる、みたいなものだと思う。