最終更新日: 2020/02/24 作成日: 2020/02/24

自分なりに価値観を確立することが「大人になる」ことのひとつだと思っていた.分別がつくようになるとでも言えばよいのだろうか.ひとたび出来上がってしまえば,あとは自分なりの価値観に即して判断していけばよいのだとも思っていた.その先はないと思っていた.

最近は,どうもそうでもないらしいと感じつつある.もちろん,完成された価値観というものは存在しないはずなので,適当なタイミングで価値観のアップデートが必要だとは認識していた.ただ,それは言わば軌道修正であって,その価値観を抜本的に再構築するほどのものではない,と思っていた.

価値観それ自体が老化することもあるらしい.

思い返すべきは,価値は,環境というか時代背景みたいな,コンテクストがあってこそ成り立つものだということ.価値がコンテクスト依存する以上,その価値に対する見方や考え方がコンテクストの変質によって変化して然るべきだろう.

簡単に言うと,時間が経って古く感じる価値観もあるということ.ある映画のレビューに「結局だれが悪役なの?ってぐらいなあなあで終わっちゃうんですよね。うーん、本当につまらない!」という言葉があった.昔は,あからさまな悪役がヒーローに討たれるなんていう構図が流行っていたんだろうが,今の時代ではもう古くなってしまった.単純すぎて見るひとが飽きてしまう.これは裏を返せば,視聴者というコンテクストが変質してしまって,価値観が古くなってしまったと言えると思う.

個々人が価値観を確立することと,その価値観が時代に即しているかは別問題だということかもしれない.そして「時代に即しているかどうか」は非常に曖昧だということが原因なのかもしれない.結果論的に言えば「適当なタイミングで価値観のアップデートを行えなかった」ために,価値観そのものが時代遅れになってしまったとも言えなくはない.だがそれは結果論だ.

個人の価値観がその個人のみの意思決定に影響しているうちは「人それぞれ」で片付けられる.端的に言ってしまえばそれは好みの問題だから.だが,他人を巻き込むような場合はそうも言っていられない.気づかぬうちに自分が老害になってしまうのは誰だって避けたいだろう.

以上を鑑みると「老害」という存在がすんなり理解できる気がする.すなわち,老害は自分なりの価値観を確立しており,経験に裏打ちされた自信をその価値観に対して持っている.しかしその価値観自体が時代遅れになっていることに気付いていない(あるいは受け入れられていない).他者からすると,経験に裏打ちされてしまった価値観は,なかなか厄介である.なるほど,老害が嫌われるわけだ.

時代が変わっても,変わらないものはあるのだろうか.