最終更新日: 2011/11/08 作成日: 2009/07/07

科学技術とは、読んで字の如く、科学だけでは足りず技術だけでも足りないものなのだろう。科学が論理的な側面を担い、技術が経験的な側面を担う。経験則を理論的に説明しようとして生まれた理論法則に、経験則が包含されていくのは当然の流れではあるから、理論がある程度の体系を得た現在で、技術が大なり小なり科学に道を譲るのは理解できる。以前は熟練の職人の技と言われたものが、現在では機械が技でも何でもない作業として行っているものも少なくない。

——いつかは科学が技術を完全に飲み込むのだろうか、と考えると、私は少し疑問である。なぜなら科学とは、理想化された世界を考え、揺らぎや誤差というものを排除する傾向にあり、現実はその揺らぎや誤差を多分に含んで存在している。逆に、技術はその揺らぎや誤差を含んで、技術として存在している。その違いのために、完全には技術が科学に呑み込まれないことを示しているように思うからだ。

機械が作ったものを人間が良・不良を見分けるという作業を例に挙げて考えてみる。これは人間が見極めた方が低コストで出来るからだという理由を真っ先に思いつくかもしれない。しかしそれは科学の範疇の外であるがために、科学に任せるとコストが嵩むということである。誤差を無視した科学の産物を、誤差を含めた技術が見極めているのだと言える。

副題を科学と技術との分離・融合としたのは、今までの科学や技術というコンセプトを改めて問い直し―つまり、分離して―相補的な役割を果す科学と技術とを一として捉えること、すなわち融合が現在において必要になってきていると考えられたためだ。具体的には、技術とはいつかは科学に呑み込まれるだろうという見解が暗黙のうちに広まっているように思うが、それは技術というコンセプトを経験に裏打ちされたものだと考えるからであり、それはほとんど時代遅れだと言わざるを得ない。技術を、科学の排除した誤差を含めた現実を捉えるものと考えたならば、検品作業は―人間にとっては退屈な作業でしかないが―全く技術的なものであり、機械にはできない誇るべきものとなり、技術は科学を補う存在と言える。

最後に、このコンセプト自体もいずれは時代遅れとなるかもしれない。誤差さえ含んだ科学が登場した時点で、上述の考えは破綻するのだから。そのときはまた別の考え方が必要になるか、もしくは科学技術とは則ち科学であるという風になるかもしれない。