最終更新日: 2019/01/01 作成日: 2019/01/01

世間はいつも暗い話題ばかりで、楽しいことなんてあまりない。少しの楽しい時間でさえ、心のどこかに漠然とした不安みたいなものがある。できることなら、ただただ楽しく生きたい。

「大人なんだから、楽しいだけじゃ生きられないんだよ」なんて、十分に身に染みて分かっている。文字通りに、身体に染み込んだ漠然とした不安感。心の奥底でくすぶる焦燥感。あゝどうしてくれよう。

本当に、どうしたらいいんだろう。そんな不安や焦燥からの卒業が、大人になるってことなのかもしれないけど、ぼくはそんな大人にはなりたくない。心の底から楽しいと思えない代わりに緩やかに死を待つだけの人生なんて御免蒙りたい。

この気持ちや悩みは、きっとぼくひとりで解消できるものではない。だって、もし仮に自分ひとりが楽しめたとして、それは瞬間的なものでしかなくて、「衰退していく日本」は相変わらずそこにあるのだから。多分きっと「日本」を、あるいは世界を、変えなきゃいけない。もしくは「日本」を捨てるか。

日ごとに日本を離れるという選択肢が現実味を帯びてきているけど、今はまだ「日本」を変える選択肢のことを考えていたいと思う。昔から、もっと“いい”場所に行かずに、今いる場所をどうにかして、“いい”場所に変えたいと思って生きてきたからだと思う。根っこにあるのは帰属意識だと思う。(まぁ“いい”にも色んな基準があって、それもまた具体的に議論しなきゃ無意味なんだけど。でも、いわゆる政治的な右や左という意味はない。)

漠然とした不安感や焦燥感、その温床の社会問題は、色んな要因が複雑に絡みあっている。そんなものに対するアプローチがひとつであるはずがないし、ひとつのアプローチで万事解決できる魔法のようなものはない。色んな方法で、色んなところから解決しようと試みるしかない。結果論として、解決の決定打になったアプローチはあるだろうし、それを後世のひとは学ぶのだろうけど。

ここまで具体的にどの社会問題についても言及してこなかった。ここで具体的に議論するつもりもない。それは、細かいことをよく知らないからこそ、細部に目を奪われずに本質が見極められることがあるからで、また、この不安や焦燥に対しては丁度それに該当していると思っているから。

漠然とした不安は無知ゆえに生じる。それは正しい。ゆえに実際問題、自分にどれくらい影響が出るのか調べれば、必要十分な不安を見積もることができて、この「漠然とした不安」はなくなる。実際に行動を起こすことで焦燥感も緩和される。それも正しい。調べたり対処法を画策すれば、実際に前進していて、前に進んでいるときに焦ることも苛立つこともない。

でも、ぼくはそういう話をしたいんじゃない。それは確かに世界を変えることだ。でもそれは「日本」を変えることではない。自分が変わること。見え方が変わって、それはすなわち世界が変わるということ。自分を枠に合わせていたら、枠は変えられない。それは漠然とした不安や焦燥と戦うことではないと思う。

長くなってきたのでとりあえずここで中断。