最終更新日: 2016/02/10 作成日: 2013/09/02

いわゆる作品と呼ばれるもの全般、その評価の在り方の話。 映画でも良いし、ドラマでも良い。 もちろん文章や絵画、音楽でも良いし、料理やお酒でも良い。 もしかするとスポーツ観戦なんかも作品と言えるかもしれない。 ひとつの人生すらも、作品と見なすひとがいるかもしれない。

そんなモノに対する自分の評価スタンスについて、考えたい。 当然だが、個々の作品に対する評価自体は、人それぞれだ。 「これは面白い」だとか、「あれはつまらない」だとかと評価するのだろう。 しかし、作品に出会う度に「評価する」という行為を繰り返していくことになり、 その人には、評価の仕方に何らかの傾向が生まれてくるものだ。 つまり、ある作品の評価に、自分の趣向が反映されたりする。 あるいは似た別の作品を知っているせいで、その作品の評価が変わってしまったり。 他にも、人によっては、そのときの気分が評価に影響することもあるだろう。 あまり意識されていないかもしれないが、ここではそういう傾向に注目したい。

作品についてではなく、またその評価自体についてでもなく、評価スタンスについて。 言葉を変えて説明するなら、評価に影響する基準はどのようなものがあるかという話。 しかし当然ながら、そんな基準すべてを考慮しようとするのは無謀だろうし、 ぼくとしてもそんなところに興味は無い。

要約して言えば、絶対評価か相対評価かという話をしたい。 大別すれば評価スタンスはこの二者に別けられるとぼくは思っている。

他に別の作品があろうがなかろうが、それを知っていようがいまいが関係ない。 その作品に対する理解度や自分の持った印象とそのときの自分の感情のみで評価する。 これを絶対評価と呼ぼう。 相対評価は、逆に、他の作品と比較して評価する。 もちろんその作品の理解度や自分の持った印象や感情も評価に影響はするが、 その印象や感情は、まず第一に他の作品との比較から生じている。 「あれより面白い」や「それに比べたらまだ作りがあまい」だとか。 絶対評価の場合は、他の作品の存在が自分の抱く印象や感情に影響しない。 (理想的な絶対評価や相対評価についての話なので、当たり前な話ではあるが、 現実にはこんなにキッパリ別れない)

繊細さでは相対評価には勝てないが、絶対評価なら、きっと人生が楽しい。

そこそこ面白い作品に出会えたとき、絶対評価であれば「面白い」と評価し、 相対評価であれば「アレに比べれば面白いが、ソレには及ばない」と評価する。 他に類を見ないほど面白い作品であれば「めちゃくちゃ面白い」と絶対評価。 相対評価は「今までで一番面白い」と言う。

卑近な表現を使えば、絶対評価は「アホ評価」で、相対評価は「インテリ評価」だ。 他の作品が評価基準に入らないと、どうしても表現の幅が狭まり、 抱く印象も「だいたい同じ」になってしまう。 相対評価は、他の作品をものさしにして、その「だいたい同じ」を細分化して、 異なった印象へと変えることができる。

アホ評価という表現では、絶対評価の絶対性が見えにくいかもしれない。 他のものと比べてしまうインテリ評価は、どうしても、目の前にある作品だけを 見ることができない。 飛び抜けて面白いモノに出会ってしまったら最後、「アレよりも面白くない」と 評価してしまうことになる。 それに対して、アホ評価は「めちゃくちゃ面白い」と「面白い」と言うだけだ。 世の中にはそこそこ面白いモノが溢れていることを考えに入れれば、 インテリ評価を採用して生きてしまうと、絶対評価より人生を楽しめないかもしれない。

ぼくは、絶対評価か相対評価を選べと言われたら、これは究極の選択だと思う。

理想は「アレには劣るが、しかしこれはこれで面白い」と評価できることなんだと思う。 これは絶対評価では出来ないことで、相対評価に分類されるのだろう。 しかし「これはこれで」という部分に絶対評価が入り込んでいる。 いわゆるジンテーゼとしての評価スタンスの提唱なんだけれど、まだぼくにはこれを扱えない。