最終更新日: 2015/05/24 作成日: 2010/10/08

「恥を知れ」とは、どういうことか。

これを無礼な行為に対して戒めの言葉と捉えれば「無礼者め、礼をわきまえろ」ということになる。ぼくは、その言を戒めとは捉えずに、敢えて教訓として考えてみたい。そうすると非常に多くのことを学べるように思う。

たとえば、先生に対して何事に対しても質問をする生徒がいたとしよう。その生徒は些細なことでも質問しては、先生の答えを待っている。他の生徒からすれば、少し自分で考えれば分かるようなことでも先生に質問しているのである。その生徒に対して、先生は怒る体でもなく、ただ静かに「恥を知りなさい」と諭した。先生は下らない質問に答えることが煩わしくなってその言葉を口にしたのではない。

きっと、その生徒は悩むだろう。そうして質問することを躊躇うようになる。「恥を知れ」ということは非常に奥の深い言葉だ。安直にその示すところを捉えて、質問することへの戒めだと思うかもしれない。だが、先生の真意とは全く異なる。

恥を知るということは、今の場合で言えば、その質問をしていいのだろうか?と考えることである。 それは反語の表現ではなく、純粋な疑問としなさい、ということだ。つまり、その質問は自分で考えれば答えられるのではないか、と考えることである。そうなれば、その質問の答えを自分で探そうと思うのは当然の流れだろう。結局、自分で考えて分からなかったのだったら ((考えても分からなければ、調べる。調べても見つからなかったときに聞く。それが最終的に行き着くべき理想の姿勢だろうとぼくは考える。ただ、最初から考え方も調べる方法も分かっているはずはないだろうから、最初のうちはどんどんと質問していくことがいいのかもしれない。よい先生であれば、生徒は知らないうちに考え方を身につけていくだろう。))、質問してみる。

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とはよく言ったもので、どちらにせよ、恥なのである。

考えても分からなかったという自分の未熟さを知り、剰えそれを人にさらけ出すということは、恥なのである。そして、その自分の未熟さに甘んじるということは、恥を抱えて生きていくようなものなのである。

恥を忍んで、恥をさらす。

その心を知らなければ、いくら質問をして答えを得たところで、それは何の役にも立たない。聞けば答えが得られるのだもの、どうして自分で考えなければいけないのかと思ってしまう。答えを得ることが目的であるなら、それを質問すればよい。けれども、自分が成長するためにその質問をするつもりならば、自分で考えて、それでも分からなかったときに質問することが望ましい。

恥を知れば、自ずと礼も弁えるというもの。再び質問に来た生徒に対して、先生はそう言って真意を諭したというお話。