最終更新日: 2012/01/30 作成日: 2008/10/24

死刑廃止論者に対しての問いかけ

死刑制度を採用している日本でも、その制度について賛否が別れている。 ここでは、しばしば持ち出される一つの問いかけ(というか指摘か)のことを考えたい。 それは死刑制度の否定派へと向けられたものである。

「死刑制度を否定する人は、もしも自分の知っている人や愛している人が殺されたとしても、今と同じように死刑制度に反対するのか?」 ((余談だが「大罪を犯した人間が刑務所の中で生きている間、その人間は国民の血税でまかなわれているんだ!生かしておく義理はない」などと言う暴言を吐く人もいる。 受刑者はただのんびりと刑務所で生かされているわけではないのだから、暴言だと言わざるを得ない。 参考までに刑務所生活 。))

これに対して、すっかり冷めてしまった見方をしているのならば「友人を殺されたときの気持ちなんて実際にそうなってみないと分からないだろう、だから分からない」という考え方もできる。 けれども、それでは実際に分かろうとしていないことになる。 相互理解の第一歩はお互いが歩み寄ること、それはここでも同じはず。 その努力はしたいと私は思う。 つまり、友人を殺されたことがないけれども、友人の死に悲しみ、その死を招いた相手を恨み憎むものだろう―その悲しみがどれほど深いものなのか、また恨み辛みがもたらす闇がどれほどなのかは量りかねるが―と推測くらいはできる。 それから順当に考えるならば、確かに「到底アイツを生かしておけない、死刑を!」となりそうだ。 じゃあみんな、死刑賛成になるじゃないか、という話になってくる。

確かにそうなりそうなものだが、今は死刑という制度を考えなければならない。 上のたとえ話は、詰まるところ―制度について考えているように見えていても―「友人を殺したアイツに友人と同じ死を!」と言っているに過ぎず、別に死刑の制度については賛成も反対もしていない(現在は日本では死刑制度があるから、賛同はしている)。

考え方のピントが少しズレていると言いたい。 もしも日本が今まで死刑制度を導入していなかったなら「終身刑」を求めるかもしれない、ただただ極刑であってほしいと望むというような可能性はないわけでない。 よって、必ず「死刑制度に賛成」に落ち着かなければならないこともない。 つまり「死刑制度を否定する人は、もしも自分の知っている人や愛している人が殺されたとしても、今と同じように死刑制度に反対する」可能性は残るということ。

制度として考える

まず第一に「死ぬことで、犯した罪は償えるのか」と考えることが妥当なように思われる。 なぜなら「償えない」という話になるのなら死刑制度など廃止するに超したことはないのだから。

ところでそれ以前に、そもそも犯した罪は償えるものなのかが疑問だと考えるかもしれない。 だが人間は誰しもが過ちを犯すと考えるならば、償えるものだと考えてもいいのではなかろうか。 ただ、この考え方は、非常に難しい。 と言うのも、過ちが殺人などであった場合、この考えを遺族に向かって平然とは言えないだろうから。 確かに理性的に考えれば、加害者は自分の犯した罪を償うことができる、その可能性はないわけではない(と考えたい)。 だが、犯した罪が消えるわけではないのだから「必ず罪は償える」と一般的に言い得ない。

とりあえず、罪は償える余地があるとして話を進めるしかないように思う。 そうでなければ、決して過ちを犯さない人間しか認めないことになるのだから、それではあまりに妥当だとは言えない。

果たして死ぬことが、本当に犯した罪を償うことになるのか。 罪を犯した自分が死ぬことで、その罪さえ赦されるものなのか。 いまところ私には分からない。 だが、憎しみは、また新たな憎しみを生むことを私は知っている。 被害者に遺族がいるように、加害者にも家族があるだろう、ただ一人で生きてなどいないだろう。 負の連鎖を断ち切る――「断ち切る」とは、どういうことなのだろうか。

こんなときにいつも思い出す言葉がある。 宮崎駿の映画で、風の谷のナウシカというものがある。 そこでは自分たちを利用して殺そうとした人間を「仕方がなかった」と言い、何の罰も与えずに赦してエンディングを迎えている。 「仕方がなかった」と言える人で、私はありたいと思う。 だが、それを自分以外の誰かにも求めることは、決してしてはいけないのだとも思っている。

答えが出ないままだが、別の問題を考えてみることも必要だろう。 「犯罪者であろうと人である限り、人の命を絶つことが是認されていいのか」という問題も看過できはしない。 死刑という制度は、命の尊厳というものに大きな疑問を投げかける。 しかし私は、これに対しても、また何も言えない。 是認されてはならないと確かに思っているが、是認せざるを得ないのかもしれない。 死刑になって当然と言われるほどに重大な過ちを犯したと誰もが思う罪深い人間が、本当にいないとは言い切れないのだから。

ただ一つ言えること

制度というものを考えることは、とても難しく、感情だけでは制度は論ぜず、そうかと言って、感情がなければ制度を考える意味がない。 それだけは確かなことだと私は思っている。

もしも私が答えを得たとして、それは私の答えであって、ほかの誰かの答えでさえあるとは限らない。 ほかの誰かの答えと私の答えとが相容れない場合だってあるだろう。 違った答えがあったとしても、制度とは同じように私にも他の人にも適用されるのだから、万人が納得できるような「答え」はないのかもしれない。 では、そもそも論ずる意味がないではないか?ということになるかもしれないが、論ぜずして人の生死を左右されるような制度を残しておくことを、私はしたくない。